JEAN-MICHEL-BASQUIAT
MUSIAM
先日、六本木ヒルズ 森アーツセンターギャラリーで開催されている『バスキア展メイド・イン・ジャパン』に行った。
詳細
開催期間 2019年9月21日〜2019年11月17日
開館時間 10:00~20:00(最終入館19:30)
料金 一般 2100円
高・大学生 1600円
小・中学生 1100円
公式ホームページ
バスキア展 メイド・イン・ジャパン | 森アーツセンターギャラリー - MORI ARTS CENTER GALLERY
J
EAN-MICHEL-BASQUIAT
政治、経済、黒人文化、人種差別、pop、jazz、英語、日本語、漫画、アニメなど様々な文化を取り入れ、わずか10年で役3000点のアートをこの世に残し、27歳でこの世
を去ったバスキア。
彼がこの世に残したメッセージとは...
1960年バスキアは、ハイチ系移民の父とプエルトリコ系移民の母の元に生まれた。幼い頃から絵を描くのが好きで初めは漫画やアニメを参考に絵を遊び感覚で書いていた。
彼の絵に骸骨が多い理由は、バスキアが幼い頃道端で遊んでいた際に車にはねられ、骨を折ってしまった。数週間の入院を余儀なくされたバスキア。そこで母が解剖学の本を彼に渡したことがきっかけで、バスキアの絵には骸骨をモチーフとした絵が多く作品として残っている。
彼のアートワークは幼い頃から始まり、次第にストリートカルチャーに影響される。落ちているものや壁にドローイングをするようになった。またpop,jazz,hiphop,rockなど様々な音楽の文化に影響を受けたバスキアはバンド活動を始めることになる。彼の作品には音楽の文化を一枚の紙に敷き詰めた作品もある。
80年代半ば、当時、高度経済成長を遂げていた日本にバスキアが訪れる。彼が感じたのは、あまりにも想像に反していた景色だった。日本のバブルを目の当たりにしたバスキアは、それをアートとし自身の作品に落とし込んで行った。
POPアーティストとしてアート界の最先端を走っていたアンディー・ウォーホル。バスキアはある日、道端でウォーホルを見つけると自身の書いたポスターカードを売りつけた。その後、バスキアが個展を開く頃には、ウォーホルとも親しくなっていた。ウォーホルと親しくなったバスキアは、のちに共同制作として作品を作り上げた。
1987年アンディー・ウォーホルは急死した。親友を亡くしたバスキア。のちにヘロインの吸引量も増え、翌年1988年8月12日にヘロイン過剰摂取により死亡した。
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